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暮らしのマイトパルタ

ばっちこーい!

「選択肢が増えること」と「可能性が広がること」は違う

言葉

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先進的にITや情報を使いこなす大学の学部に通ったのに、
プログラミングにさっぱり興味がない。

習得したいとも思わないし、ワクワクもしない。
でも、これから生まれる子ども達は、
小さいときからIT機器に囲まれて育ち、
僕よりも自然にプログラミングへの関心を持つのだと思う。
僕の分まで、是非、頑張ってもらいたい。

 

プログラミングは、「プログラミング言語」と言われるように、
言語のひとつなので、
プログラミング習得(教育)の話は、
外国語と同じカテゴリーで、議論されるのだと思う。

外国語を小さい頃から学ぶべきか、議論があるように、

プログラミング言語を学ぶことについても、
これから世の中は、喧々諤々やっていくのだと思う。

 

他の国の言語を話せると、
色んな人とコミュニケーションが取れるし、仕事の幅も広がる。
「英語を学ばないなんて、人生の選択肢を減らしているようなものだ」
とまで考える人も、世の中にはいる。


ただ、僕の友人に、中国語と英語を話せる子がいるのだが、

彼女は、まったく中国語も英語も使わずに、
家で、主婦業をやっている。

周りからは、散々、外国語を使って仕事をした方がいいと言われていたが

それを武器にするつもりはないようだった。

周りは、中語語や英語をしゃべれるのに使わないなんて、

無駄に選択肢を狭めている、
と言っていたが、
彼女は、たまたま中国語や英語がしゃべれるからといって、
それに関わる仕事に就こうとすることが、
自分の人生の選択肢を狭めることになると、
考えていた。

世の中には、色んな考え方がある。



言語を使えると、確かに選択肢が増える。

ただ、「選択肢が増えること」と、「可能性が広がること」は違う。

「選択肢」が多すぎるためにずっと悩んで、

「可能性」を潰している人は、どこにでもいる。

しまむらにも、デパ地下の惣菜売り場にも、出会い系サイトにも、

一つに選べずに、ずっと迷ってる人が、たくさんいる。

「選択肢」が多ければ多いほどよいわけではないことは、

彼女たちをみればすぐにわかる。
(ただ、彼女たちは、買うつもりがないのに、
 「選択肢」だけを眺めて楽しむ、
 ウィンドウショッピングという奇妙な趣味もあるので、
 もしかすると、「選択肢」の考え方が男と女では違うのかもしれない)



小学六年生の頃、担任の先生は、

僕たちが頑張って勉強すべき理由を、
「勉強すれば、いろんな仕事につけるから」と説明していたが、
僕は、それは、嘘だなと思っていた。

東大を出た人が、便所の「汲み取り屋さん」になろうとすることは、まずないからだ。

(その時、僕の隣の席にいた友だちの父親が「汲み取り屋」さんだった)

「社会的に」いいポジションに登れば登るだけ、
選択肢の絶対数は増えるだろうが、
同時に、そこから抜け落ちる選択肢もある。

その時、「可能性は広がっている」と言えるだろうか。


「選択肢」は、数えられる(絶対数の)話だが、

「可能性」は、数えられる(絶対数の)話ではない。

それは、お金の話と同じで、

お金は、あればあるだけ「できること(選択肢)」を増やしてくれるが、
あればあるだけ、「(人生の)可能性」が広がるかというと、
よくわからない。

今後、子どもにプログラミング言語を習わせた方がいいかどうか、
悩みだす親がたくさん出てくると思うが、
プログラミング言語は、外国語と同じように、
どこまでいっても第二言語、第三言語だ。
第一言語ほど重要なものではない。

まずは、子どもにちゃんと、

第一言語を教えていればいい、と思う。

 

自分が一番わかっていない

社会

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自分のことは分かっているようで、自分が一番わかっていない。

学生の頃、結婚式場でアルバイトしていたことがあり、

そこに関口君というバイト仲間がいた。
関口君は、仕事が早いわけでも遅いわけでもない、
上司に気に入られることも嫌われることもない、どちらかというと存在感の薄いバイトだった。

 

結婚式は、週末の土日しか基本的に開かれないので、平日はその準備をすることになる。
指示書に従って、テーブルを出し、皿や花を並べ、ナイフやフォークをセットしていく。

仕事が一通り終わって手が空くと、皆、「トーション折り」に移る。

これはトーションと呼ばれるナプキンを、皿の上に飾るために、バラの形に折っていくもので、
折り紙のように手順通りに折っていくと、バラの形になる。

 

この仕事をサボると、式の前にトーションが足りないと皆が青ざめることになるので、
必要以上のトーションをせっせと折るのだが、
関口君のトーション折りは誰よりも素晴らしかった。
関口君が折ったトーションは、本物のバラのようだった。
ただ、素晴らしかったのは、トーションの出来よりも、
トーションを折っている関口君の姿だった。

「関口君は、トーション折りに向いてるよ」

あまりにも板についていたので、そう関口君に言うと、
別にこんなものに向いてても、という表情を関口君はしていたが、
僕以外のスタッフも、「確かに」「関口はトーション折るのが似合う」と、僕に同意した。

以前にナプキンを折る仕事をしていたわけでもないだろうに、
折る際の手際がいいのか、丁寧さがいいのか、
何がそんなに関口君とトーションの相性をよくしているのかわからなかったが、
誰が見てもその仕事は関口君に向いていた。
本人は気付いていないが、その人に向いている仕事というのはある。

 

僕が小学校を卒業する時、
担任の先生がクラス全員にクラスメイトのいいところを書かせたことがあった。
その、クラスメイト全員が僕のいいところを書いた紙は、今も実家にあると思うが、
そこに書いてあったことを、大人になって、ふと思い出すことがある。
自分が思いもしなかったことを、「あなたにはこういうところがある」と褒められたからだ。

 

日本は、あまり褒める文化ではない。
それでも構わないと僕は思うが、
本人が気づいていない、よい部分は、もっと口に出してもいいんだろうと思う。
自分のことはわかっているようで、自分が一番わかっていなかったりする。

誰かに言われて、はっと気づくことも多々、あると思う。

関口君だって、あの時、僕がぽろっと言わなかったら、
自分が誰よりも「トーション折り」に向いているなんて、
一生気づかずに終わっていたはずなのだから。

 

言葉のコードをあわせる

言葉

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人と話していてコードが違うなあと思うことがある。

お互い、「国」が、「社会」が、「自由」が、などと話していても、
どうも、話がうまく噛み合わない。
僕がいう「社会」と、彼がいう「社会」は別物のようだ。

言葉にはなにかしら意味があって、辞書にその意味は載っているわけだけど、

その背後には膨大な、これまでその言葉が使われてきた文脈があるので、
同じ意味で使っていても、使い方がかなりずれていることがある。

Cコードで歌いたいのに、ギターの人がGコードから弾き始めるようなものだ。

コード進行自体は間違っていないので、歌えないことはないが、
Cがいつものキーなので、Gで弾かれると、どうもしっくりこない。

 

コードが合っている人との会話は、前提を確認する必要がないので、楽だ。
その「自由」がどういう状態のことを言っているのか、
その「自由」の利点を語る裏には、どんなマイナスがくっついているのかを、
いちいち説明しなくても、わかってくれる。
話が、さくさく前に進む。

専門家同士が、専門用語ばかり使うのも、そういう理由だ。

特殊な専門用語は、意味以上の情報を含んでいるので、
それをわかり合っている人たちの間では、とても使い勝手がいい。

 

先日、政治家が「横文字ばかり使うな」とヤジを飛ばされていたが、
横文字(カタカナ)も、専門用語みたいなものだ。
横文字にしておけば、外国で使われている言葉を、
その言葉にくっついているまわりの情報を含んだ状態で、日本でも使える。
便利だ。

便利だが、まだ日本で十分揉まれていない言葉なので、

専門外の人(一般の人)にはうまく伝わらない。
内輪の言葉なのだ。


もともとスポーツで使われていた「パフォーマンス」という内輪の言葉は、

近頃、スポーツ界以外でも聞くようになった。

仕事場で最高のパフォーマンスを見せるために・・・。

自身のパフォーマンスを最大化するために・・・。

これまでスポーツ界で使われてきた言葉が、

一般社会で使われるようになったのは、
社会がスポーツのようなものになってきたからなのかもしれない。

ただ、「パフォーマンス」と言う時に、

そこにスポーツ的な考え方がくっついていることを、
話している人は、あまり意識していない。
そこが横文字と専門用語の違いで、
専門家は、専門用語の文脈を知ってて当然だが、
横文字は、別にそんなこと知らなくても、使っていい。
横文字は、敷居の低い専門用語みたいなものだ。

 

専門用語ばかりで話す官僚や、横文字ばかり使う起業家は、
なんだか信用に欠ける。
わかってもらおうとする気がないように見えるからでもあるし、
本当に伝えたいことがないように見えるからでもある。

本当に伝えたいことを言う時に、

どう受け取られるかわからない、使い勝手のいい、便利な言葉は使わない。
相手と自分のずれがなるべく少ない言葉を使うはずだ。

ただ、専門用語や横文字ばかり話す人は、内輪で話しすぎて

どこまでが専門用語でどこまでが一般に通じる横文字か、わからなくなっている。
そういう人を見ていると、
コードが同じ人と話す心地よさも感じつつも、
コードが違う人と話すことも必要だよなぁ、と思う。

 

TED≒スタンダップコメディ

外国

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TEDというプレゼンテーション団体がある。
「広める価値のある考え」をモットーに、
観客に囲まれ、壇上に立ったプレゼンテーターが、様々な考えを発表していく。

そのフォーマットは世界中で知られるようになり、

NHKでも専門番組があり、
TED×Kyoto、TED×Tokyoなど、日本各地でも会が開催されているのだが、
このプレゼンの形式は、スタンダップコメディの国の形式だなぁと、いつも感じる。

観客の前で、身振り手振りを交えて、

適度に観客をいじりながら、一人で話を進めていく。
これまで日本人もたくさん登壇しているけど、
あの形式がしっくり来ている人がいるのだろうか、と思う。
みんな、探り探りやっているような印象を受ける。

 

スタンダップコメディ形式は、スピーチの文化がある国の形式だ。
福沢諭吉は早い段階から日本でもスピーチの文化を育てようとしたようだが、
あまり上手くはいかなかった。

日本はスタンダップコメディの国ではないのだから、

日本でTEDをやる際は、
一人じゃなくて二人でプレゼンテーションした方がいいんじゃないかとも思う。

漫才にしても、バラエティ番組にしても、

トークだけで何かを説明したり客に納得させる時は、
一人よりも二人の方が上手くいくのが日本スタイルだ。
メインMCの隣にいるアシスタントというのは日本でよく機能しているし、
女子アナという日本で花開いたアシスタント文化もある。

テレビショッピングで商品を説明する際も、

一人で商品の良さを説明するよりも、
隣のアシスタントが、合いの手や決まったフレーズを連呼することで、
プレゼンに、いいリズムが生まれている。

 

TEDのモットーは、「広げる価値のある考え」だが、
一番広がっているのは、「考え」ではなくあの「形式」だろう。

ただ、あの「形式」にうまく乗る「考え」もあるし、

うまく乗らない「考え」もある。
形式は常に、内容を規定する。
非欧米国は、あの「形式」にうまく乗らない「考え」を乗せる「形式」を、
そろそろ考えたほうがいいのかもしれない。

 

TEDのようなプレゼンパッケージは、
アメリカならどこにでも似たようなものが転がってそうなものだが、
そうではないようで、TEDの創業者は、
TEDに価値を認めたイギリス人の起業家に、
15年前にTEDを売却している。

TEDはれっきとした商品なのだ。

発表形式を商品にして売却するという、その姿勢がまさにアメリカンで、
「形式」同様、感覚の違いを感じる。

非欧米国、日本はそろそろ、日本の発表方法を考える時期かもしれない。

日本にはまだ世界にしられていない「形式」があると聞く。
「RAKUGO」という形式もあるというし、

「HINADAN」という形式もなかなかいいと聞く。
「伝え方」を変えることで、まだ伝わっていないことを伝えることはできるはずだ。

夏目漱石の嫁 ソクラテスの嫁

社会

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ノーベル賞受賞者大隅良典さんの妻・萬里子さんは、
同じ分野の研究者でもあり、公私共に、大隅さんを支えたという。
「成功の陰には良妻あり」という話、なのかな。

ただ、偉大な男の陰には、常に良き妻がいる、わけではない。
哲学者・ソクラテスの妻、クサンチッペは歴史に残る悪妻として知られている。

ソクラテスは一冊も著作を残していないので、
悪妻に描いたのは周りの人間なのだけど、
とにかく、人類史に輝く哲人・ソクラテスの価値を理解しない、
悪妻だったらしい。

 

夏目漱石の妻も悪妻という話がある。

もともと上流階級のお嬢様で家事が苦手な上に、ヒステリック。
漱石の周りにいた弟子たちからは評判が悪く、
漱石の没後10年に、漱石との思い出を本として出版した折には、
自分ばかり良く書いていると、
有識者や門下生から「悪妻」呼ばわりされたという。

ただ、日本文学の未来を一身に背負っていた漱石神経症で、
妻や子どもによく手をあげる、DV夫だった。
現代なら、世間から相当なバッシングを受けていたことだろう。
漱石の時代にSNSがなくて本当に良かった・・・)

漱石の娘は、子どもの頃、何度も
「あんなに怖いなら、そしてあんなにお母様をひどい目にあわせるなら、
いっそお父様ならなんか死んでしまった方が良い」
と思ったという。

そして、
「鏡子(漱石の妻)だから、あの漱石とやってこれたと
 褒めてあげたいほどのことがたくさんあった」とも。

 

解剖学者の養老先生は、
宗教が明らかな形で生活に入ってこない日本では、
夫婦関係が、宗教の役割をしていると、どこかでちらっと言っていた。

つまり、夫婦生活という不条理な毎日の中で、
人は、忍耐を学び、我慢を学び、折り合いをつけることを学んでいくと。
夫婦関係によって日本人は、人間としての成長を遂げているのだ、と。

悪妻と毎日を暮らすソクラテスは、
悪妻との生活の中で、様々な「哲学」を見出していったのかもしれない。

 

ただ、ソクラテスは歴史に残る哲学者ではあったが、
稼ぎとなる定職を持たず、妻の実家の財産で暮らす、いわば、ヒモだった。

悪妻・クサンチッペにしても、悪妻・夏目鏡子にしても、

ヒモやDV夫に愛想を尽かさずに、
最後まで寄り添ったという意味では、「良妻」だった。

二人とも「ヒステリック持ち」だったと歴史は伝えるが、

100年後も2000年後も名前の残る変人と同じ屋根の下で暮らして、
気がおかしくならない方がおかしい。

悪妻か良妻かは、本やテレビ越しには、わからない。
悪妻か良妻か、「悪夫」か「良夫」か、
本当のところは、当人どうしにしか、わからない。

夫婦関係は、哲学史文学史に関係ない、
どこまでいっても、パーソナルなものだ。

 

「翻訳できない世界のことば」

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「翻訳できない世界のことば」という本がある。
ある文化特有の言い回しで、他の言語に対応する言葉がないような表現を集めた本で、
世界中の「翻訳できない」言葉がイラストとともに紹介されている。

原書には、日本語から、「KOMOREBI(木漏れ日)」や「BOKETTO(ボケっと)」も
紹介されていたらしいが、日本語版には、紙数の関係か、それらはカットされ、
「TSUNDOKU」が選ばれていた。

TSUNDOKU(積ん読)。
買ったはいいけど、読まずに部屋の中に積み上げたままの状態のこと。
言葉の語感は最近の言葉のようだけど、明治時代に普及した言葉で、
「積んでおく」と「読書」をかけた駄洒落的な合成語ということらしい。
最近はむしろ、消えつつある言葉だそうだ。

「近頃、積ん読ばっかしちゃってさぁ〜」。
思い出してみても、自分の口から「積ん読」なんて言った記憶はない。

 

「翻訳できないことば」として、「積ん読」を選ぶなんて、センスいいなあと思うけど、
どうやって選んだんだろうと考える。

筆者は、英語圏の20代。イラストレーターだ。
ピックアップされた日本語は「積ん読」だけど、
イヌイット語もインドネシア語もあることを考えると、
本人がすべての言葉を知っている上ですべての言葉を集めたわけではなさそうだ。

では、誰かに聞いたのだろうか。
聞くといっても、日本語を知っている人に、
「『積ん読』的な、翻訳しにくい単語、何かない?」と聞いてもでてこないはずだ。
日本語に通じている人は日本語に慣れすぎていて、
何が「積ん読」的で、何が「積ん読」的でないか、わからない。

では、日本にいる外国人に聞いたのだろうか。
外国人なら、「積ん読」的な単語をピックアップするセンサーはあるだろう。
だけど、「積ん読」はすでに廃れつつある言葉だ。
外国人コミュニティに容易に「積ん読」が、流れてくるとは思えない。

しかも、日本語以外のいくつもの言語から、
これらの「積ん読」的な単語をピックアップしているのだ。
どうやって集めたのか、見当がつかない。
筆者紹介を見ると、もともとは、小さなブログ記事で書いていたらしい。
ウェブを漁ってれば、「積ん読」的な言葉は、見つかられるものなのだろうか・・・。

 

本の中の「翻訳できないことば」で心にとまったのは、
イヌイットの言葉で「IKUTSUARPOK(イクトゥアルポク)」という言葉。
「誰か来ていることを期待して、何度も何度も外に確認しにいくこと」
を表す単語だ。

確かに、日本語に、それにぴったり当たる言葉はない。
「翻訳できない世界のことば」だ。

「そんな何回も、外に確認しにいっても、しょうがないでしょう」とは言っても、
「そんなイクトゥアルポクっても、しょうがないでしょう」と言うような言葉はない。

これがイヌイットの言葉だと聞くと、
雪と氷の世界で、毛皮をかぶった子どもが家の外に何度も出てくる様子が目に浮かぶ。
イヌイット達は、よくイクトゥアルポクるのだろう。

そういえば最近、イクトゥアルポクってないことに気づく。
子どもの頃は、よくイクトゥアルポクってたけど、
最近、すっかりイクトゥアルポクらなくなった。
イヌイットの世界では、誰かが家を訪ねてくることが、
日本よりも嬉しいことなのかもしれない。

そんなイヌイットの人たちには、その来訪者が来た時に言うべき言葉を教えてあげよう。
「有朋自遠方来。不亦楽乎(友、遠方より来たる。また楽しからずや)」
何度もイクトゥアルポクった分だけ、友の来訪は嬉しいものだよね。
ま、これ、日本語じゃないけどね!

 

イノベーター理論

社会

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流行りに乗ることができない。
小さい時についた世間の流行りに乗らない癖は、大人になっても変わらないもので、
何が流行っても、全然、興味がわかない。

中学生の時、携帯用テトリスが学校中で流行り、
みんながテトリスの30面や40面をクリアしていた時、
僕はひとりそっぽを向いていて、
みんながテトリスに飽きて、見向きもしなくなった後に買いに行き、
3面クリアしたところで飽きて、やめた。

たぶん、流行りごとに、向いていないのだと思う。

マーケティング用語には、「イノベーター理論」という考え方があって、
ある商品に対する態度の違いによって、
人々を5つのグループに分ける。

①流行りに関係なくのめり込んでいる人=イノベーター
②流行りになりだす前に興味をもつ人=アーリーアダプター
③流行りだしたら興味をもつ人=アーリーマジョリティ
④完全に流行りになってから興味をもつ人=レイトマジョリティ
⑤流行りに無頓着な人=ラガード

携帯用テトリスに関して僕は、⑤か、もしくは、
⑥流行りが終わってから興味をもつ人(そんなグループないけど)、
だったのだけど、
iphoneくらいの、もっと社会的に大きな流行りになると、
おばさんや高齢者まで含まれるので、③くらいに入るのかもしれない。

ただ、流行りを作る人は、②でも③でも④でもなく、
①流行りに関係なくのめり込んでいる人、だ。

流行りのゲームを作る人は、ゲームが市民権を得る前からゲーマーで、
流行りのアニメを作る人は、大人のアニメ好きなんて気持ち悪かった頃から、
立派なアニメオタクだったはずだ。
流行りを作る人は、流行りを追った時点で、アウトなのだ。

 

流行りを作り出す人といえば、
プロデューサーの秋元康氏が15年くらい前、インタビューで
「止まった時計は一日に二度あう」と言っていた。

世の中は、流行りだ、ブームだと、いつもせわしなく動いているので
世に合わせて時計の針を動かそうとしても、絶対に追いつけない。
そうではなく、針を止めたままにしていれば、午前と午後、
必ず、一日二回は、正確な時間を指す瞬間が、訪れると。

当時、テレビ番組の制作側の人くらいにしか思っていなかったので
その言葉にピンとこなかったが、
AKBが世の中に出てきた時に、ピ、ピ、ピーン!ときた。

80年代、おニャン子クラブで合わせた針が、
20年経って、AKBで再び、ぴったり合っていたのだから。

流行りを作る人は、流行りを追うことはしない。
流行りを作る人は、動かず、じっと、
流行が自分に合わせてくれるのを、待っている。

流行りを作る人は、流行りを追った時点で、アウトなのだ。

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