暮らしのマイトパルタ

ばっちこーい!

SUPER FRIDAY

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先週の金曜日、ミスタードーナツに行列が出来ていて、
100円セールかなと思い、覗いてみたが、どこにもそんな張り紙はない。


100円セールにしても異常なほどの行列で、店員さんが「最後尾」の紙を持って立っている。
並んでいる客に聞けばよかったのだけど、そこは都会民、ツイッターに聞いてみると、
Softbankがユーザーに、1人2個ずつ無料でドーナツを配っているとのこと。


なんてこった!!
タダって、強いな!!

行列を眺めながら、日本中のミスドの店長に思いを馳せる。
全国の店長は、昨日までてんやわんやだったろうな。


まず、ドーナツの数が予測できない。
初めての試みで、客が1.5倍になるのか2倍になるのか、予測がつかない。
事前に同じ企画で行われたサーティーワンの「アイス一個無料キャンペーン」から
事前に数を推測しただろうか。
その推測は当たっただろうか。


しかも反響が大きい企画だけに、「本日のドーナツ、終了しました」も通じない。
ドーナツは生モノじゃないから、ストックが切れるということはないのだろうか。
でも何故か、エビグラタンパイだけ異様に売れてしまうとかの事態になったら、
グラタンだけ足りないってこともあり得たかもしれない。
とにかく商品を切らさないことに気を使うだろう。


それに、人の確保にも、気を使う。
ただでさえバイトが遊びに出たがる金曜日に、フル出勤体制で望まなければいけない。
しぶるバイトの子たちに、全国のミスドの店長は、何回、頭を下げただろう。

全国の店は、押し寄せる客をちゃんとさばいて、店はちゃんと回っただろうか。
少なくとも、高円寺駅前店は、全然まわっていなかったけど・・・。


そして、その日だけ飛びぬけて増えた売上は、数値上、どう扱われるのだろう。
そのまま素直に売上として計上して、今月の予算達成に貢献するのだろうか。
そうだとしたら、一年後の昨対(昨年対比)はどう考慮されるのだろう。

来年の同じ月に、Softbankが同じ企画をしてくれるはずはない。
来年の売上のマイナス分を上層部はちゃんと理解してくれるだろうか。
「去年は去年」と言われ、Softbankの企画上乗せ分の予算が組まれて、
店長にしわ寄せがいかないだろうか。

そう、店長に思いを馳せると、ドーナツなんか全然もらう気にならない。
はやく今日が終わるといいね、とつぶやいて、店を通り過ぎる。


道すがら、スマホをスクロールすると、
「来週は、ハニーチュロにしよ」との誰かのつぶやき。
来週・・・?
どうやら、これ、12月いっぱい続く企画らしい。


ってことは、天皇誕生日も、12/30もやるの・・・?
同情する。
頑張れ、ミスドの人たち。
頑張れ、全国のミスドの店長。

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「頭の黒いネズミ」という上手い返し

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小池都知事が会見で見せた「切り返し」がニュースになっていた。
知事が作った五輪調査チームは、五輪会場の見直し提案を行っていたのだが、
結局全て、元の計画通りに建設される見込みになりつつある。

そのことについてある記者が、
「大山鳴動して鼠(ねずみ)一匹ではないか」と言ったのだ。
つまり、「知事。騒いだわりに大した成果がなかったんじゃないですか」、と。

それに対し知事は、
「それは失礼ではないか。(中略)五輪がいかに持続可能であるべきかを追求した。
 経費をさらに削っている。(中略)
 『大きな黒い頭のネズミ』がいることが分かったじゃないですか」
と、反論した。

「黒い頭のネズミ」とは、身近にいる盗人のことをいう表現らしい。
ふーん。
勉強になる。

大山鳴動して鼠一匹」と言われて、
とっさに「黒い頭のネズミ」で返したのは上手いなと思う。
変なダジャレや、つまらないヤジを飛ばす国会議員より、よっぽどスマートだ。

だけど、上手い返しが、本当に言いたかったことかどうかは、わからない。
ネズミという「お題」で、頭の中でネズミ、ネズミ・・・と考えて、
出てきたのが「頭の黒いネズミ」というワードだけだったという可能性もある。

ネズミ、ネズミ・・・、
「袋のネズミ」・・・、「窮鼠猫を噛む」・・・、
違うな・・・。
ネズミ小僧も鼠先輩も関係ないし・・・、
舞浜のネズミのことは、変に話題にしないほうがいいだろうし・・・、
あ、「頭の黒いネズミ」ってのがあるじゃない。
ちょうど利権に群がる人たちもいることだし。

そうやって思いついた切り返しは、もともと知事がいいたかったことじゃない可能性がある。

慣用句や成句は、比喩だ。
大山鳴動して鼠一匹」も「頭の黒いネズミ」も、
その「ネズミ」の様子に似た状況をさして、言葉にするのだ。
本当に山が鳴動して、鼠が一匹出てきたわけではなくて、
そういう状況と似た状況ですね、と記者は言ったのだ。

それに、「頭の黒いネズミもいることがわかったじゃない」と返した知事は、
その時、頭の中に五輪の周りにいる盗人のような人たちを思い浮かべたのだろうが、
あの場で、「五輪周りには盗人がたくさんいるんだぞ」というメッセージを
カメラを通じて、どうしても皆に伝えたかったわけではないだろう。

あの一瞬の切り返しの間、知事は伝えたいことよりも、
慣用句で「ネズミ返し」することを第一に考えていたと思う。

比喩は「似た状況」であって「状況そのもの」を指す言葉ではないし、
その比喩を「返す」比喩は、さらに伝えたい「状況そのもの」からは遠ざかる。

四六時中なぞかけを考えている芸人やフリースタイルを磨いているラッパーならともかく、
政治家は即興でうまい返しをすることを得意とした職業ではない。
言うべきことと言うべきでないことがある仕事だ。
即興の比喩返しは、これきりでいい。

TVショウとしては面白いし、個人的には、違う記者が別の「ネズミ」の比喩で切り返して、
その切り返しに、知事がまた別の「ネズミ返し」で応酬してほしかったが、
それは政治ではなく、TVショウだ。

上手い切り返しは、常におまけであるべきで、全面に出るべきものではない。

 

ノーベル賞選考委員の思惑

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芥川賞を取った村田沙耶香さんの「コンビニ人間」が50万部を超えたらしい。
なんだかんだ芥川賞は、影響力がまだまだあるようだ。
一年前にヒットした「火花」のバブルがまだ続いているのかもしれない。


芥川賞の選考委員は、過去に芥川賞を受賞したり、候補になった人達で構成されている。
賞を選ぶのが出版業界人ではなく、既に名の通った作家達なので、
売れそうな本に賞を与えて芥川賞の名声を高めているわけではなく、
単純に面白いと思う本を選んでいるのだろう。

賞を与える側の人たちは過去に賞を受賞していたり、過去に候補に上がった人達で、
これからその賞をもらう可能性のない人たちだ。
もし、選ぶ側が今後選ばれる側になる可能性が残っていたら、
色々、思惑が入ってきて、面倒だと思う。


建築家の坂茂氏が建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を数年前に受賞したが、
坂氏は以前に、プリツカー賞の選考委員をやっていたと聞く。
プリツカー賞の選考方法は知らないけれど、
賞に選ばれる人が以前、賞を選んでいたってのは「アリ」だろうか・・・。


それだと選ぶ側の人が、今後自分が選ばれる側になった時のことを考えて、
色々と、思惑が入ってくる気がするのだが・・・。

 

選ぶ側と選ばれる側には明らかに「上下」がある。
選ぶ側は与える側で、与えられる側は、賞を与えられるまでじっと待つしかない。

その「不平等」是正措置として、選ばれる側には、その賞を「拒否」するという選択肢が残されている。

「君は、この賞に値する」という、選ぶ側の意向に対して、
「それは違う」と意向を示せるチャンスであり、権利でもある。

哲学者のサルトルノーベル文学賞に選ばれた際、

「神聖化されることを好まない」という理由で、これを拒否している。

今年のノーベル文学賞に選ばれたボブ・ディランは、

受賞が決まり世界中が騒いでいるにもかかわらず、事務局からの連絡を無視し、
受賞拒否かと思われたが、無事、受賞した。
「では、授賞式に出てくれたまえ」との要請には、
「先約があるから無理」、との返事で返した。

多分、その「先約」は、世間的なものさしでは、取るに足らないような「先約」なのだろう。


サルトルの時代は、賞に権威があるからこそ、それを拒否したが、

ボブ・ディランの時代は、賞を受けようが受けまいが、どっちでもいいくらい、
賞の権威自体が、低くなっていた
(もしくは、ボブ・ディランのせいで、今後、急速に低くなっていく)。

 

誰がどう考えても、来年のノーベル賞文学賞は、
誰もが文学者と認める作家で、ノーベル文学賞を欲しがっている作家だろう。
二年連続で、受賞を喜んでいるのかどうかわからない態度をされた日には、
賞の権威が一気に疑問視されてしまう。

賞を選ぶ側の人は、その一点にピリピリしながら、受賞者を選ぶのだと思う。

そう思うと、選考委員にしがらみのまったくないような賞でも、
そこに思惑がまったく入ってこないということは、ないのだろう。

博多駅前陥没事故、賞賛の理由

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福岡・博多駅前の道路が陥没して、一週間で復旧したニュースは、
日本の土木技術の高さと真面目さを世界に知らしめたらしい。

レバノンでは数年かかる」とか「モントリオールでは五年はかかる」など、
海外からの評価が高かったという。
事故後、情報を迅速に開示したと、市長の評価もあがったそうだ。

 

今回、報道の傾向がSNS含めて、「事故の責任者叩き」ではなく、
「事故後の迅速な対応賞賛」だったのは何故だろう。

この事故の原因だとされているのは、市営地下鉄・七隈線の延伸工事なのだから、
その長たる市長は叩かれはしても、褒められる必要などない。
自然災害に対する迅速な処理なら賞賛もありそうなものだが、
地下鉄工事が原因なら、人災だ。

しかも、この延伸工事は過去二回、陥没事故を起こしており、これで三度目。
前回の事故時も、原因をきちんと特定していなかったと言われている。

それなのに責任者が批判されず、バッシングが起きないのは、
死者もけが人も、一人もでなかったからでもあるが、
本当の理由は、今回の事故が「穴」にまつわる事故で、
復旧作業が、ただ「穴」を埋めるということだったからだ。

 

人間は本当に、「穴」を埋めることに興味を持っている。
食欲も性欲も、「穴」に関する欲だし、
ゴルフにしてもビリヤードにしても、「穴」を埋めることが娯楽になっている。

つまらない勉強に子どもを惹きつけるために、ドリルや問題集はすぐに問題を「穴埋め」にするし、
世界中の若者は自ら耳に「穴」を開け、それを塞ぐことをファッションとして楽しんでいる。

恋人を失ってぽっかり空いた心の「穴」を、新しい恋人で埋めようとすることもあるし、
仕事であけた「穴」は、必ず何かで埋め合わせしないといけない。


人は、「穴」をあけ、そして何かで埋めたいのだ。

「穴」はそのままにしておいてはならず、必ず、埋めるか、塞ぐかしなければならない。
「穴」があき、それを人が埋めようとする時、人は何かに夢中になっている。

今回、街の中心地に突如できた巨大な「穴」に博多の人々は興奮してツイートし、
その「穴埋め」のスピードに世界のメディアは驚嘆した。

もし、今回の事故が、ただの崩壊や倒壊だったら、多分、皆の興味は責任者探しと、
責任者バッシングになっていただろう。
世界的な報道も、九州最大都市の真ん中に穴をあけた体たらくを、
「日本技術に大きなキズ」と批判的に伝えたかもしれない。

「穴」だったからよかったのだ。
「穴」だったから、みんなで懸命に埋めることができ、
見ている人も怒らず、じっと見守っていられたのだ。

開けるべきは「穴」であり、塞ぐべきは「穴」だ。


今回、事故の原因とされている地下鉄・七隈線は、開通前から採算性を疑われていた路線で、

開通してみると、見事なくらい市民に利用されなかった。

今現在進行中の工事は、繁華街である天神までつながっているその七隈線を、
福岡の玄関口である博多駅まで伸ばすことで、利用客を増やそうとする計画だ。
しかし、その延伸工事で本当に利用客が増えるのか、採算が取れるのかは、
工事前からすでに結構疑われている。

そして、この事故。
「穴」を開けたことで企業に対して賠償を払わなければいけないし、
次の事故を防ぐためのボーリング調査も実施しなければいならない。

この地下鉄は、市営であり、余分に必要になった金はすべて税金でまかなわれいる。
この延伸工事の経費を回収できずに、地下鉄事業がさらに採算が取れなくなったとしても、
その赤字を「穴埋め」するのは、税金でしかない。

海外メディアが褒めてくれたとしても、ただ、街に「穴」があき、それを塞いだだけで、
マイナスがゼロに戻っただけなのだ。
決して、マイナスがプラスなったわけではない。

ただ、あの「穴埋め」で、福岡市民の心理に何を及ぼしたかは、誰にもわからない。
穴を埋めたことで、なんらかのプラスがあったのかもしれない。

WBC日本代表盛り上がらない問題

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先日、WBCの強化試合があった。

同時刻にサッカーの日本代表のW杯予選が行われていたのだが、
視聴率で大きく差をつけられたらしい。
野球の試合が強化試合だということを差し引いても、よくない数字だったという。
試合内容も、快勝したサッカーとは対象的に、満足できるような内容ではなかった。


野球はサッカーと比べて国対抗で戦う歴史が浅いので、

ナショナルチームとしての野球の魅力がまだ薄い。

クラブチームの観客動員数はサッカーよりも野球がはるかに多いので、
別にナショナルチームが不人気でも今はたいした問題ではないが、
今後の野球人気を考えると、ナショナルチームとしての魅力も、
つけていったほうがいいと思う。


日本代表野球チームの人気のなさの一つは、監督にあるとも言われている。

現役時代、ホークスで活躍した小久保監督が率いているのだが、
WBCの第一回、第二回監督が、王監督、原監督なのに比べると
ネームバリューとしては、少し弱い。

ただ、それを批判するのなら、

監督経験のない小久保を監督に就任させた時点ですべきだったわけで、
今さらそんなことを言っても、しょうがないとは思う。


国際大会で勝つためには、チームとしてまとめれるかどうかが鍵をにぎる。


いくら上手い選手を上から11人集めても、強いサッカー代表チームにはならないし、

チームとして機能するためには、全員が同じ方向を向いていなければならない。

サッカーの国際大会では、レギュラーを若手に奪われた過去のエースが、

腐らずにチームをサポートし、盛り立てているようなチームが、
良い成績を残したりしている。


野球は、国際大会の経験が乏しいので、そういう経験をした選手がまだ少ない。


学生の頃からチームの中心で活躍し、プロに入ってもエースや主力を張っている、

いわば野球エリート達は、「補欠」を経験したことがない。

少なくとも、ここ数年、リーグで成績を残している選手が代表として集められているわけで、

誰も、サポートする側のメンバーになったことがない。

そんな状況でも、チームを一つにまとめあげるのが、監督の求心力だったりする。

その求心力は、監督としての実績や、選手としての実績によって生まれるのだが、
監督未経験の小久保監督には、それがまだない。

王監督は、誰も文句を言わせないような成績を残したレジェンドだし、

原監督も、巨人を率いた名将としての実績があった。

小久保監督は、現役時代もいい選手ではあったが、

日本代表にはそれを超えるようなタレント達が集まっている。
なかなか、まだ「チーム」にはなれていないのかもしれない。


第一回のWBCでは、イチローがなんとしても、王監督を世界一にすると奮起していた。

第二回のWBCでは、不振にあえぐイチローをなんとかしてあげたいという気持ちが
チームをまとめていた。

チームが一つになるためには、誰かのために、何かのために、が必要になる。


WBCという大会や、野球の国際大会は、

まだ、サッカー選手にとってのW杯や、高校球児にとっての甲子園のような、
身を削ってでも勝ち取りたいものになっていない。

まだ、日本代表選手達が、燃えたぎっていない以上、何かの起爆剤が必要だ。

もう一度、韓国と対戦して負けて、

マウンド上に韓国の国旗をたててもらうしかないのかもしれない。
今、見ている限り、日本の野球エリートに火をつけるには、
そのくらいのショック療法が必要なのかもしれない。

神聖なマウンド

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日本には「道」がたくさんある。
剣道、柔道、茶道、華道・・・。

この国はなんでもかんでも「道」にするといわれるが、

スポーツや生活文化をただの技能で終わらせずに、思想にまで高めて「道」にする際は、
必ず「場」を神聖なものとして扱うことになっている。

剣道における道場、茶道における茶室。

すべての基盤となる「場」に敬意を払わずして、「道」はスタートしない。
「道」としての、「場」でのふさわしい振る舞いが決められ、
ふさわしくない振る舞いが、締め出されていく。

 

「道」は教育と相性がいいので、気を抜いていると学生のスポーツはすぐに「道」化する。

「柔の道」が、柔道に生きる人の進むべき道であるように、

「野球道」という言葉は、野球をする人の進むべき道として既に浸透している。

柔道、剣道ほどではないにしろ、野球には既に、「道」が入り込んでいる。

「サッカー道」というのは、まだ、聞いたことがない。
サッカーにはまだ「道」が入り込んできていないようだ。

 

サッカーにはまだ「道」が入ってきてはいないが、
試合に投入される選手は、ピッチに入る前に、きちんと一礼している。

まだ教育上の「礼節」にとどまっているが、

気を抜いていると、そのうち「道」へ格上げされる恐れもあるので、
注意が必要だ。

野球はもう既に「道」が入り込んでいるので、

選手はグラウンドに入る前に、当たり前のように帽子を取って、しっかり一礼する。
大きく声をだすことも忘れない。

甲子園という高校球児・憧れの地に立てば、

必ず皆、その神聖なグラウンドの砂を持って帰ることを忘れない。

例えその砂に中国・福建省の砂が混じってるという事実を知っていても、

その神聖さはなんら損なわれることはない。

そんな、神聖化された野球グラウンドの中でも、

投手が上がるマウンドという場所は、さらに神聖化されている。

なぜバッターボックスではなくマウンドだけが特に神聖なのかは、誰も知らないが、

とにかくマウンドは神聖であり、
「神聖なマウンド」にあがる投手には、それなりの態度が求められる。

ただ、ボールを投げていればいいわけではない。

大相撲の横綱みたいなもので、マウンドにあがる投手には、
「プレイ」の質以上の、「品格」が求められるのだ。

 

たんなるスポーツなのに、そんなにおおごとにしてしまうのは、多分、日本だけで、
中国でも韓国、台湾でもマウンドを神聖だなんて思っていないと思う。

アメリカやスペインなんか、ちゃんと説明したとしても、理解される気がしない。

メンタリティが違いすぎる。

僕が所属していたアメリカの野球クラブにいたピッチャーは、

マウンド上で、唾を吐き、ガムを吐き、ひまわりの種を吐いて、鼻水を吹いていた。
片方の鼻の穴を人差し指で押さえて、鼻水をマウンドに吹き出し、
もう片方も同じように、マウンドの上に吹き出していた。

神聖なはずのマウンドは、唾とガムと種と鼻水で汚されていた。

日本の高校なら、そのピッチャーは監督にぶっ飛ばされていただろう。

 

メジャーリーグで活躍するようになった日本の野球選手の中にも、
グラウンドに入る前には帽子を取って一礼する選手は少なくない。
ヨーロッパリーグで活躍するようになった日本のサッカー選手でも、
ピッチから出る時に深々と一礼する選手は少なくない。

ただ、先日、世界一位のマレーと接戦を演じたテニスの錦織圭がコートを出る時に、

一礼しているところは、まだ見たことがない。

錦織圭は、14歳からフロリダのIMGアカデミーでやっているので、

頭を下げたり、頭を丸めたり、そういうことはしない。
軽く手をあげて歓声に応え、テレビカメラにサインするだけだ。
試合中にラケットをコートに落として回転させてキャッチしたりするし、
股の間を通した、人を食ったようなショットも普通にやる。

「道」をやっている人は、そういうことをしない。

彼は、「テニス道」とは一番遠いところにいる。

そんな錦織圭は、ATPツアーファイナルベスト4入りを決めた。

是非、今回は頂点をとってほしい。
「道」に従って歩いている人は、先に示された道があるが、
「道」をやっていない人は、自分で道を作っていくしかない。

頂点まで、あと2つ。
打倒、ジョコビッチ&(多分)マレー!

 

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