読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

暮らしのマイトパルタ

ばっちこーい!

「コリジョンルール」は改悪か?

f:id:humptytimes:20161213210710j:plain

今年のプロ野球は「コリジョンルール」というものが導入されて、
本塁でのクロスプレーが減った。
来年からは、本塁以外での、「併殺崩し」と言われる接触プレーも禁止になるらしい。

接触プレーを減らしているのは、選手のケガを減らすためだ。
以前は、完全にアウトのタイミングで、外国人ランナーが無駄にタックルするなどして、
捕手が脳しんとうを起こす場面も多々あった。
そういう無駄なケガを防ぎたいのだ。

ただ、この接触プレーを減らす流れには反対派も一定数いて、
そういった危険なプレーこそがスポーツの醍醐味でもあるというのだ。

確かにスポーツから危険を取ったら、面白さは半減する。
特にチームスポーツは戦争の相似形でもあるので、危なくないと、見ていても面白くない。
野球はあんなに硬い球を人に向かって投げ込むから面白いのであって、
あれがスポンジボールだったら、誰も見ない。

アメリカの四大スポーツと言われる、野球、バスケット、アフメト、アイスホッケーは
野球を除いて、いずれも大男たちがぶつかりあう危険なスポーツで、
アイスホッケーなんか、毎試合、乱闘があり、人を殴ること込みで、興行になっている。

 

サッカーでは相手にスライディングすることを「削る」といい、
試合中、同じポジションの選手は「削り合い」をして戦っている。

ただ、それは、切り傷、かすり傷、打撲の応酬であって、選手生命を奪うようなプレーではない。
マナーの範疇なのだ。


だが、野球のスライディングやタックルは、時に選手のシーズンをまるごと奪うことがある。
大怪我につながるプレー。

それはひとえに、野球が接触のゲームではないからだ。
離れたピッチャーとバッターが球を投げ、打ち合う野球では、
接触の場面が少なく、接触のマナーが育っていない。
どこまでのタックルが敬意で、どこまでのスライディングが悪意なのかのか、了解がとれていない。
みんな、なんとなくで、やっているのだ。

それに、野球が非対称的なゲームだという理由もある。
接触型ゲームでは、「削ら」れたら、「削り」返せばいい。
同じポジションの選手は、攻守が逆転するだけで、「組み方」は変わらない。
攻撃の選手を守備側が削り、攻守が変われば、同じように守備側が攻撃の選手を削る。
削ったら、後で、削った人から削られる。
ちきんと、「目には目を」が機能するような、「組み方」になっている。


しかし、野球はチーム全体として対称なだけで、個としては非対称にできている。
チームの4番が相手のエースから死球をくらったら、
次に死球をくらうのは、相手のエースではなく、相手の4番なのだ。
チームのキャッチャーが相手の外国人にタックルでふっとばされたら、
次にぶっ飛ばされるのは、その外国人ではなく、相手のキャッチャーなのだ。

やった人がやられるわけではない。
チームとしては「やられたらやりかえせる」のだが、
「個」としては、「やっても、やりかえされない」。

その安心感が、度を超えたタックルやスライディングにつながっているのかもしれない。

現役時代、天才打者・落合博満は、相手ピッチャーから頭に死球をくらってもプレーを続け、
次の打席で、ピッチャーの横を抜くセンター前ヒットを打った。
そして、次の打席では、先の打席での失敗をもとに微調整をして、
ちゃんと、ピッチャーの大事な肩に強烈な打球を打ち返して、ピッチャーを病院送りにしていた。

そういう対称的な「ぶつけあい」ができるのは、一部の天才だけだ。
ほとんどの選手には、難しい。
個々の能力で難しいことは、ルールとして組み込むしかない。
危険を回避する最近のルール改正には、おおむね、賛成している。

 

韓国のスタバのトイレ

f:id:humptytimes:20161214122842j:plain

 

韓国の釜山のスタバのトイレに行った時の話。


スタバで本を読んでいると、店内に外の風が入ってきて寒かったからか、
何だか便意を感じたので、店員さんに訪ねて、店の外のトイレに向かった。

スタバが入っているようなビルなので、トイレのピクトグラム(トイレを示すマーク)は
しゃれていて、清潔そうな感じを受けるのだが、
トイレの個室の中に、使用済みのトイレットペーパーを入れるゴミ箱が設置してある。

おしりを拭いた紙は流さず、ゴミ箱へいれるようにお願いします。

使用した紙を水に流してはいけないのは、
水に溶けない紙の問題なのか、トイレの排水の問題なのかは知らないが、
韓国のトイレはよくつまるらしく、紙は流さないのが普通らしい。
他人がゴミ箱に捨てた使用済みトイレットペーパーを一瞥して、苦い顔のまま、ふと、
数年前に起きた韓国のセウォル号沈没事故を思い出した。

 

セウォル号の事故が起こった当初、韓国のメディアでは悲痛な論調とともに、
「我々は、まだ本当の一等国ではなかった」という言い方がされた。

友だちの韓国人とその話をした時も、
韓国は経済を発展させて外見だけは一等国のふりをしていたが、
本当の一等国ではなかったと、自戒をこめたように振り返っていた。
あの時彼が、なんという単語で「一等国」「二等国」と言ったのかは忘れたが、
一等国とか二等国とか、そういう表現を使うんだなと思った。


何をもって一等国、二等国とするのか僕はわからなかったので、ただただ彼の話を聞いていたが、
危機の際どう振る舞うかで国の本当の力量が示される、ということだった。


確かに危機の際に、一等国、二等国と考えることもあるのだろうが、
普段のトイレを見て、一等国、二等国と考えることはないのかなと思う。


音姫付きウォシュレットの国から来た僕は、使用済みトイレットペーパー用ゴミ箱を見ると、
トイレは国としての一等、二等には関係ないのかしら、と思う。
トイレこそ、よその一等国に負けないよう、常に清潔で、最新のテクノロジーでもって快適にする
という感覚はないのだろうか。

女性がアジアやアフリカの国に行って、最もセンシティブになるのは、トイレだ。
普段きれいで衛生的なトイレで用を足している先進国(と呼ばれる国)の女性達は、
途上国(と呼ばれる国)の、清掃が行き届いていないトイレで用を足すことを嫌悪する。


僕は男なので、タイの大便用トイレが簡易的な扉で、個室というより半個室みたいで、
しゃがむと半個室でもなく、まる見えだったとしても、これ扉の意味ないなあと思うだけだし、
ブータンのトイレが二階にあって、便が一階の牧草の上に落ちるようになっており、
牧草の隣で牛がモウモウ鳴いていても、牛がこの後これ食べるのかなあ、と思うだけだけど、
女性はそういうところに敏感だし、衛生感覚の違いに国の違いを見ていたりする。


僕は何をもって、一等国、二等国とするのかわからないので、
自分の便を確認する前に勝手に便が流れていくような自動洗浄トイレが上等で、
他人の使用済みトイレットペーパーを目にしなきゃいけないトイレが下等とも思わないが、
一等国、二等国ということを気にするのなら、トイレには敏感になった方がいいと思う。

そう思って個室を出ると、手洗い場にはちゃんとハンドソープが設置してあり、
ハンドドライヤーも、結構温かい温風が出てくる。
ここは、ちゃんとしてるんだな・・・。


個人的な順番としては、ハンドソープやハンドドライヤーの設置よりも、
使用済みトイレットペーパー用ゴミ箱の撤去が、先のような気がする。
人が便座の前に立っただけで便座カバーが勝手に開いて、
便座が常に適温に温めているようなトイレマニアの国から見ると、ね・・・。

 

自治体による「餅つき禁止」

f:id:humptytimes:20161213200858j:plain

 

自治体がイベントとしての餅つきを禁止しているらしい。
屋内で開催するようにとか、その場で食べずに家に持ち帰って火を通してからとか、
いろいろ制限がつくようになっているらしい。
屋外での餅つきは食中毒が拡大するなどもっともらしい理由をつけているが、
ようは、クレームを恐れているのだ。
そんな、お客様クレームを恐れて、楽しい生活文化を自ら壊すような規制には、
断固反対する。


行政がいらぬ自粛を始めると、
お店や地域団体など行政主導ではないイベントでも自粛が始まってしまう。
社会が以前よりも衛生的にひどい状況になっているならともかく、
シャーペンもエレベーターのてすりも「抗菌」してるような衛生社会で、
いまさら餅の感染症を恐れるなんて、細かいことを恐れすぎだ。


そもそも「餅」は、行政の管轄ではない。
「餅」は文化、生活の管轄下にあるもので、役場の管轄ではない。
「自治体主催の餅つきは、ビニール手袋はめてやるんやねえ」
そのくらいの、こそっとした衛生対策をやっていてくれればいい。

餅もそうだが、いつの間にか、「火」も行政の管轄になっている。
家でものを燃やすことは禁止になり、
枯れ葉や枯れ枝もゴミ袋につめて出すことがルールになっている。
私有地であっても、焚き火をしてはいけないという話も聞く。


詳しい現実の線引きや法律を知らないのでつっこんでものは言えないが、
そもそも「火」も、行政の管轄ではない。
役場がこの世に誕生するはるか前から、
ヒトは火を焚いてきた。
「火」の方が、役場よりも歴史が長いのだ。


歴史が長いものには敬意を払い、一度は立ち止まって考える。
これは、歴史を有する国の常識だ。
役場の人は、一度立ち止まってちゃんと考えて欲しい。
「火」が本当に、役場の管轄か。
そして、「餅」が、本当に、役場の管轄か。
そして、役場の人に、「餅」や「火」のことで悩ませなくていいように、
「餅」や「火」の問題は、役場にまかせず、自分たちで考えよう。

 

 

※この問題に関して、ウェブ上で「禁止はやりすぎ」と言いつつも、
 「ま、俺は食べないからいいけど」と、
 餅つきの餅を食べないと言う人の多さに愕然とする。

 

茨木のり子「もっと強く」

 

              f:id:humptytimes:20161213193239j:plain

詩人・茨木のり子の詩に「もっと強く」いう詩がある。

「もっと強く願っていいのだ
 わたしたちは明石の鯛がたべたいと」
「猫脊をのばしあなたは叫んでいいのだ
 今年もついに土用の鰻と会わなかったと」

もっと強く願っていいのだ。
そう、茨木のり子はうたい始め、

「わたしたちが
 もっともっと貪婪(どんらん)にならないかぎり
 なにごとも始りはしないのだ」

と、「強く願う」ことの必要性をうたう。

この詩はたしか、昭和30年代に発表されたもので、
戦争が終わり、独立も回復した日本社会が、
もっともっと変わっていってもいいはずなのに、
それを望んでいないかのような、
人々の「願い」の弱さに、茨木のり子は歯痒い思いをしたのだろうと思う。
「もっと願え」ば、世の中は変わるのに、と。

当時の日本に比べて、食糧事情をだいぶ改善した現代では、
「明石の鯛」も「土用の鰻」も、以前よりは買い求めやすくなった。
(それが、養殖/中国産だとしても・・・)
どちらかといえばものは社会に溢れるようになり、
もっともっとと、「強く願う」よりも、
「願いを抑えること」「節制すること」を、人々は要請されるようになった。
「栄養」の話よりも、「ダイエット」や「メタボ」の話。
「ブランドもの」の話よりも「断捨離」の話。
本屋さんには、「欲」を抑えるためのメソッドや自己啓発本が、ずらっと並んでいる。
今は、「鯛」が欲しい「鰻」が欲しいと「強く願う」よりも、
その願いを抑えこみ、ほどほどで満足することが美徳なのだろう。

だけど、ものがあふれるこの時代にも、茨木のり子の言葉は生きている。
「土用の鰻と会わなかったと」叫んでいいのだと言った後に彼女は、
「女がほしければ奪うのもいいのだ
 男がほしければ奪うのもいいのだ」
と、「鯛」や「鰻」を食べてきたであろうこの国の草食化してしまった若者達にうたいかける。
「もっともっと貪婪(どんらん)にならないかぎり
 なにごとも始りはしないのだ」
「もっと強く願っていいのだ」と。
「萎縮することが生活なのだと思い込んでしまう」若者達に、
人間を矮小化するなと、昭和30年代の詩人は、うたいかける。

 

 

引っ越し

本日より、こちらで書いていきます。

読んでもらえれば、嬉しいです。

以前書いていた分も、アップしていきます。

広告を非表示にする

「今年の漢字」と「流行語大賞」

f:id:humptytimes:20161213191921j:plain

今年の漢字」が「金」に決まったらしい。
2000年、2012年も「金」だったので、今回で3度目だという。
一般投票で決められるため、
オリンピックが行われた年は「金」になりやすいらしいのだが、
なんとも、芸がない。
先日発表された「流行語大賞」は、「神ってる」という言葉が大賞を取り、
こちらも、前年の「トリプルスリー」と合わせて、
「誰も知らないし、使ってない」と、不評だった。

流行語大賞」は、「今年の漢字」とは違い、選考委員が決めるため、
その「不評」は、ダイレクトに選考委員と世間とのズレを指摘された形だが、
僕は1999年の大賞に「ブッチホン」が選ばれた時点で、
この賞が本気で、流行語を選ぶ気がないことを知っている。
(多分、若い人は、「ブッチホン」なんて聞いてもわからないだろうが、
 当時の日本人のほとんども流行語大賞で説明されるまで何のことだかわからなかった)

今年の漢字」のように、一般人に投票させても大して面白い答えは出ず、
流行語大賞」のように、限られた人たちに決めさせても、納得の行く答えは出ない。
まるで、政治制度の話のようだが、
どの国や時代にも通じる最上の政治制度がないように、
一年間をひとことでまとめるための最適な方法などないのだから、
一度使った漢字は候補から外すなどして、
その都度、決め方を改変していくしかない。

そもそも「今年の漢字」も「流行語大賞」も、話が大きすぎるのだ。
オリンピックの「金」メダルや、政治資「金」問題があったから、今年は「金」だとか、
「安」保法案や、「『安』心してください、穿いてますよ」だから、前年は「安」だとか、
話があまりにも、飛びすぎている。
流行語大賞」も同様に、ウェブ上で使われまくった言葉と、
地方のおばちゃん界隈で流行った言葉は違う。
色んな価値観や色んなフィールドを全部ひとまとめにするのは、
一年に一度、世界中からたった一人を選ぶノーベル賞のごたごたを見ていても、
結構、無理なことなんだと思う。
話がでかすぎると、何もまとまらない。

僕の地元の佐賀県では、年末になると新聞紙上で、
「今年の県内重大ニューストップ10!」という見出しで、
一年に起こったニュースが紹介されるが、
佐賀で一年間に起こったニュースなんて、たかがしれているので、
本当に重大なニュースは3つくらいで、4位くらいからは「たいして重大でないニュース」だし、
9位、10位なんて、年末になって初めて、そんなことがあった事実を知るくらいのニュースだ。
一年間をひとまとめにするなら、「県」くらいまでなのだ。
「国」は広すぎて、何を選んでも、誰が選んでも、必ず、誰かが文句を言う。
「国」はひとまとめにするには、広すぎる。
「県」クラスなら、誰も文句は言わない。
10個、ニュースを揃えるだけで、精一杯だ。

 

天皇杯の高校生参加

f:id:humptytimes:20161213200222p:plain

サッカーには、「天皇杯」という大会がある。
プロとアマの混合オープントーナメントで、
高校生チームがプロチームと対戦することもある夢の大会だったのだが、
一昨年から日程の過密などの理由で、
高校生チームの参加が認められなくなった。
過去には、市立船橋高校がJ1の横浜FMと対戦して、
延長まで戦うという熱戦を繰り広げたこともあったのだが、
そういう夢のカードは、今のところ、見られなくなってしまった。

高校生がプロと戦える。
これには、大きな意義があると思う。
普段、高校生同士のゲームしかしていない高校生が、プロと対戦することで、
それまで、自分達が「違い」だと思っていた部分を「違い」に感じさせないくらいの、
大きな違いを、プロから感じることができる。
技術はもちろんのこと、試合の運び方やコミュニケーションの取りかた、
色々なところで感じる違いは、必ず、何かしらの発見を生む。

日本のスポーツは、教育の側面が強すぎると言われ、
スポーツを純粋に楽しむ視点が弱いと言われる。
そのせいか、欧米に比べて、障害者スポーツの支援が遅れていたり、
高齢者のスポーツ環境も整っていないと言われる。
スポーツは何も、子どもをまっとうな大人になるためだけにやるものではない。
体力が衰え、できることが限られてからもスポーツは楽しめるし、
他人や自分と争わなくなってからも、スポーツは面白い。


学校教育の一環としてのスポーツ(部活)を日々やっている高校生たちは、
相手に勝つこと、もしくは自分に克つことがスポーツの目標のようになってくるが、
スポーツをやる意味はそれだけではない。
世の中には、年をとっても、ただただ楽しむためにスポーツをやる人もいれば、
プロとして、金をもらうために厳しくやっている人もいる。


スポーツをやる目的が楽しさであれ、厳しさであれ、
普段の教育的スポーツとは違う目線でスポーツをする人と一緒にゲームができるということは、
高校生達に、色んな気づきをもたらしてくれると思う。

スポーツ界の中には、野球など、プロとアマの溝が深いスポーツもある。
プロアマ混じって大会が開ける土壌が、サッカー界にあるのであれば、
天皇杯」は、高校生とプロが対戦できるチャンスを残しておいてほしいなと、思う。
ファン目線でもそう思うし、教育的目線でも、そう思う。

 

広告を非表示にする