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暮らしのマイトパルタ

ばっちこーい!

茨木のり子「もっと強く」

 

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詩人・茨木のり子の詩に「もっと強く」いう詩がある。

「もっと強く願っていいのだ
 わたしたちは明石の鯛がたべたいと」
「猫脊をのばしあなたは叫んでいいのだ
 今年もついに土用の鰻と会わなかったと」

もっと強く願っていいのだ。
そう、茨木のり子はうたい始め、

「わたしたちが
 もっともっと貪婪(どんらん)にならないかぎり
 なにごとも始りはしないのだ」

と、「強く願う」ことの必要性をうたう。

この詩はたしか、昭和30年代に発表されたもので、
戦争が終わり、独立も回復した日本社会が、
もっともっと変わっていってもいいはずなのに、
それを望んでいないかのような、
人々の「願い」の弱さに、茨木のり子は歯痒い思いをしたのだろうと思う。
「もっと願え」ば、世の中は変わるのに、と。

当時の日本に比べて、食糧事情をだいぶ改善した現代では、
「明石の鯛」も「土用の鰻」も、以前よりは買い求めやすくなった。
(それが、養殖/中国産だとしても・・・)
どちらかといえばものは社会に溢れるようになり、
もっともっとと、「強く願う」よりも、
「願いを抑えること」「節制すること」を、人々は要請されるようになった。
「栄養」の話よりも、「ダイエット」や「メタボ」の話。
「ブランドもの」の話よりも「断捨離」の話。
本屋さんには、「欲」を抑えるためのメソッドや自己啓発本が、ずらっと並んでいる。
今は、「鯛」が欲しい「鰻」が欲しいと「強く願う」よりも、
その願いを抑えこみ、ほどほどで満足することが美徳なのだろう。

だけど、ものがあふれるこの時代にも、茨木のり子の言葉は生きている。
「土用の鰻と会わなかったと」叫んでいいのだと言った後に彼女は、
「女がほしければ奪うのもいいのだ
 男がほしければ奪うのもいいのだ」
と、「鯛」や「鰻」を食べてきたであろうこの国の草食化してしまった若者達にうたいかける。
「もっともっと貪婪(どんらん)にならないかぎり
 なにごとも始りはしないのだ」
「もっと強く願っていいのだ」と。
「萎縮することが生活なのだと思い込んでしまう」若者達に、
人間を矮小化するなと、昭和30年代の詩人は、うたいかける。